スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Neil "Hawaiian" House (シカゴ)


Neil "Hawaiian" Houseはシカゴのアーティスト。
80年代に"Spinnin' Wheel" Bill, Dezzらとヒップハウスを作りました。



DZ's Pump Girls - Pump It Up (1986)
TRAXの前身Precisionから歌モノハウスを出していたDezzは
いち早くこんな陰気でグルーヴィーなハウスもリリースしていました。
この曲のMixにはヒップハウス前のFast Eddieが参加。



The Pump Girls - Get On It (1989)
さっきの曲で歌っていた女性3人がラップしています。
Neil "Hawaiian" HouseとDezzで作りました。
その辺の女の子がラップしたような脱力感がたまりません。



Neil Hawaiian House ‎– Too Good To Talk To (1989)
今度はRhythm-N-Rhymeという女性がラップ。
何人か居るみたいだしさっきの人らじゃないのかな?
トラックもラップもいいアシッドヒップハウスです。
1拍目のキックをでかくしすぎるのTyree流ですね。



Neil Hawaiian House - Feel The Hip (1989)
Neil, Bill, Dezzの三人で作成。
冒頭のシンセはRon Trent - Altered States (1990)の元ネタ。
1:16ごろでFast Eddie, Kool Rock Steady, Tyree Cooper
などの名前も出てきます。当時のスターだったんでしょうね。

すごくいい曲なんですが、音が悪すぎて残念です。
当時シカゴにはTRAXのプレス工場しかなかったので
リサイクル樹脂の適当な盤質になってしまったのかもしれません。



Phuture ‎– Rise From Your Grave (1992)
90年代前半にかけてNeilとBillの二人は
D.J.Pierreの曲作りを支えるエンジニアとして活動しました。


Phase Phorce ‎– To Die For (1993)
学んだやり方はJackしてリリースするのがシカゴ。
D.J.Pierreの発明したホラー声アシッドハウスそのままです。



Dancer - Number Nine (1988)
Dezzの方はTRAXでDancer名義でのリリースも有名です。
Bedroom Mixって何かと思ったらやってる音を流してるだけっていう。
Lil Louis - French Kissの一年前ですから、
ある意味これもシカゴの文化を作った曲かもしれません。
スポンサーサイト

Tyree Cooper (シカゴ)

高校を卒業した彼は1984年、ハウスに衝撃を受け
Mike Dunnらとクラブをオープン(Lil Louisのクラブを引き継ぎ)します。
そこへMarshall Jeffersonがやってきました。

「俺達は『TR-808使ってないんだったら20ドルで一週間貸してくれない?』
 と聞いてみた。Marshallは『おう、使ってないし全然いいよ』ときた。
 結局、俺らはその後半年間も借りパクしてたんだ!

 デモを聴かせると、Rocky(DJ Internationalオーナー)は5回もリピートした。
 それで俺達をスタジオに連れてって、キーボードは弾けるか聞いてきたんだ。
 できるわけねーと思ったけど、口が勝手に『もちろん!』って言ってたね。」



Tyree Featuring Chic ‎– I Fear The Night (1986)

「さてリズムマシンの同期を聞かれて困った。
 キーボードと他の楽器が同期できるなんてひとつも知らなくて。
 『それで、あとどうやって曲を作るんだい?』と言うんたけど
 何も言えなかった。仕方ないので妊娠6ヶ月の妹にスタジオに入ってもらい
 リズムマシンに合わせて歌わせたんだ。ブレイクは手動で止めてたね。」
 



Myoshi Morris ‎– Muzik (1988)
彼には妹が二人居て、もう一人はRockin' Houseから
三好モリスという名前でリリースしています。日系人なのかな。
そうして次にアシッドハウス、ヒップハウスのキャリアをスタート。

Armandoと同じように、彼もラッパーとハウスアーティストを繋ぐ
NYのニューミュージックセミナーに出席しました。
そこで「ラップ統一会議」というのが行われていたのですが
彼は「何でYo!MTV Rapsはヒップハウスをかけないんだ」と切り込みます。

「会議のパネラーはPrince Paul, MC Lyte, Ice-T, Ed Lover達だった。
 EdはRappin' DukeがDa Ha Da Haとやったとき、何で
 『カントリーホップ』と言わなかったかわかるかと聞いてきた。」

 『そりゃB-Boyの音楽だったからさ。
  当時はヒップホップとも言ってなかっただろ。』






当時若手だったA Tribe Called Quest, Brand Nubianらは
『ヒップハウスは全部クソ、どうしようもないクソ』とこき下ろしました。
彼はそれにも反論します。

「そのクソでヤバイ音楽がシカゴで生まれ、サウスとウエストで
 混ざったって知らないんだな。お前らが間違いないと思ってるモンと
 同じぐらい、シカゴのクソだって間違いないんだぜ。」

「ニューヨークは自分達の権威を守ることに必死で、新しいサブジャンルが
 脅威だったんだ。そうしなければ、クソが次々と生まれてきただろう。」




やがてヒップハウスは落ち目になり、彼は音楽への情熱を失ってしまいました。
クラブに行かなくなり、証券の仕事やピザの配達を始め、
新鮮な仕事にやり甲斐を感じるようになりました。
しかし、楽しい生活はそう長く続きません。
育った娘を受け入れる(施設?)必要が出て、岐路に立たされたのです。

「Dance ManiaとオーナーのRay Barneyには到底感謝しきれない。
 その頃は車でB96にチャンネルを合わせても、ヤバい音楽はかからなかった。
 ソウルがないんだ!WGCIもひどくて、ヒップホップとR&Bを
 クールにかけているだけ。俺はハウスを聞きたかったのに。
 それでRayのレコード屋に行ってダベってたら、彼が言ったんだ。


 『音楽をもう一度作る気はないか。ダンスマニアのレコードを
  持ち帰って、聴いてから考えて欲しい。』」




Jammin Gerald - Pump On The Floor (Remix) (1998)

「俺はFunkやJammin' Geraldを聴いて気に入った。
 かつて好きだったハウスはこういうのなんだ。ただ、やたらとスピードが
 速かった。Rayにはやってみるけど、自分のテイストを加えたいと答えた。
 彼は優しいトーンでシカゴを出たほうが良いと言ってくれた。そうして
 ヨーロッパでゲットーの影響を生かしたハウスを作り始めたんだ。」




Tyree & The CEO (Fast Eddie) ‎– Way U Move (1998)

シカゴの人種差別に嫌気がさしていたこともあり、その後はヨーロッパに
拠点を移し、ドイツとロンドンを移動して活動しています。


※5magagine Tyree Cooper Interview
http://www.5chicago.com/features/september2008/tyree-cooper.html
ヒップハウスの世界へようこそ
月別アーカイブ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。